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小幡憲昌兄 殉教25周年追悼式

2011年3月18日、木更津家庭教会礼拝堂で小幡憲昌兄 殉教25周年追悼式が行われました。
                                                             
<小幡憲昌兄 略歴>
  1956年5月10日   長崎にて出生
  1976年9月      世界基督教統一神霊協会に入教
  1985年9月       志願して渡米。テネシー州ナッシュビルで活動
  1986年3月19日   公園にて銃撃され昇華(享年29歳)
  2004年5月1日    殉教部門「真の父母賞」受賞                

光言社発行の「神に捧げた愛と命」に彼の話が載っています。
彼は海外宣教を志願して与えられた任地のナッシュビルに来て半年後、千葉県に住む母親に宛てて、一通の手紙を書いている。
「食べたいと思っていたお餅や、それからラジカセを、どうも有難うございました。新しい物だったので驚きました」と母親の心遣いにお礼を述べ、憲昌さんは己の胸中を吐露して、次のようにつづる。

「『もし世界を得ても生命を失ったら何になろうか。得ようとする者は失い、失おうとする者は得るであろう』という聖句がありますが、公的に生き、犠牲になって死んだとしても、永遠に住む本郷の地、霊界でどれだけの喜びを得るでしょうか。愛したという心情の実績だけが、霊界に持って行くことのできる私たちの宝です。自分は、自分に一粒の麦となって死ぬことを許してくれるお母さんを本当に誇りに思います」

続いて、自分は氏族の代表という意識で米国に来ているのだと言及し、再び「自分は本当に感謝しています。
お母さんがいたから、今まで生きてこれました。そして、国のために、米国のために、氏族のために、お母さん、本当にありがとう。
本当に感謝します。もしできるなら、自分が良く生き、良く死ねるように祈ってくだされば幸いです」と、感謝とともに並々ならぬ決意を披歴している。

米国に対する神の真の願いと、現実の米国社会との間にある、あまりに激しいギャップに嘆き、その深い溝を埋めるためならば、喜んで我が身を差し出そう・・。そんな覚悟を、彼はひそかに心に抱き,それを日本に一人残る母に伝えたのが、この手紙のように思えてならない。

だが、我が子の「遺書」のような手紙をもらって、母の昌子さんは返事を出さなかったという。

小幡さんが母の昌子さんに出した手紙の日付は、1986年2月8日だった。
それからちょうど40日後の3月19日。憲昌さんは、教会のメンバーがよく祈祷するために集まる教会近くの公園で、翌週の日曜日に黒人牧師の教会で話す準備のための訓読中に、背後から銃撃されたのだった。皮肉にも彼を撃ったのは別のキリスト教会の黒人牧師の息子で、麻薬常習者だったという。

母親の昌子さんにしてみれば、女手一つで育て上げた、一人息子の突然の死。激しい怒りをぶつけてもおかしくはなかった。だが、昌子さんはそうはしなかった。米国で変わり果てた憲昌さんの遺体と対面した昌子さんは、不思議な感動に包まれたのである。これはどういうことなんだろう。その時、彼の青春、彼の人生を決定づけた教会の教えを聞いてみないといけないと思ったのです。

憲昌さんの死は、ただの「死」には終わらず、愛する母親を伝道し、さらに祖母へとみ言葉は広がっていったのである。
小幡さんが生涯を通じて愛した米国でも、多くのクリスチャンや牧師らが伝道された。

現在、黒人牧師たちが積極的に文鮮明師ご夫妻を証しし、神のみ旨をリードしていることと、小幡さんの殉教、昇華とは深いところで結びついているに違いない。昌子さんは教会で、若いメンバーや女性教会員から「お母さん、お母さん」と慕われている。
「一粒の麦」は死に、数知れない人々の命を復活させた。彼の最後の手紙の内容は文字どおり豊かに成就したと言えよう。



母、昌子さんを中心に(3月18日)

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