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自叙伝書写に学ぶ 天運安着感謝祭
木更津家庭教会では月一度、木更津萬葉の会の主催で「自叙伝書写に学ぶ 天運安着感謝祭」を行っています。
5月16日の書写テーマ 「影のない人生を生きる」 (参加者 五十数名) |
(自叙伝238ページ)
「死を語らないまま生を語ることは出来ません。生の意味を知る為にも、私達の死とは何かを正確に知らなければなりません。どのような生が本当に価値あるものなのかということは、今すぐにでも死ぬかもしれない窮地に追い込まれ、一日でも長く生きようと天にすがり付いて泣き喚く、そのような人こそが知り得るものです。それ程貴い一日一日を、私達はどのように生きれば良いのでしょうか。誰もが渡って行かなければならない死の境界を越える前に、必ず成し遂げておくべき事は何でしょうか。
最も大切な事は、罪を犯さず、影のない人生を生きることです。何が罪なのかという問題は、宗教的に、また哲学的に多くの論争の種になりますが、はっきりしていることは良心が躊躇する事をしてはならないという事実です。良心に引っ掛かることをすれば、必ず心に影が残るのです」
<書写の証>
昨年、私は4年前に脳梗塞を患い右手足マヒ状態で杖をついて歩いている60代の男性と出会いました。教会のセミナーに参加し、その後自叙伝書写を勧めた所、「リハビリを兼ねてやってみようかな」と言って書写を始められました。毎朝5時に起床し、洗面後「よし、頑張るぞ」と気合を入れて心を込めて1時間かけて書写をしています。感謝祭にも参加されるようになり、以前と比べて明るくなり笑顔が見られるようになりました。何ヶ月か経った頃、書写の感想を聞いてみた所、「右手指先のしびれが無くなり、指先が軽くなった。」と言われました。今でも毎日書写をされていて、毎月の感謝祭に参加する事を大変楽しみにしています。
これからも書写を通して心も体も益々元気になって行くことを願っておられます。
教会長による講話「影のない人生を生きる」(詳細は最後) 「特製のお守りをこれから手渡し致します」
今月の書写とお守り・天運相続報謝箱が伝授されました。 参加者が多いので長い行列になりましたね。
書写が始まりました、皆さん真剣です。 次回も又参加して下さいね!
<教会長の講話「影のない人生を生きる」骨子>
今月のテーマの自叙伝のみ言葉にありましたように、死の意味を「正確」に知らなければ価値ある人生を生きることは出来ません。釈尊はシャカ族の王子として生まれましたが、宮中から外を眺めた時、民の生老病死の苦しみを目のあたりにして悩みました。人は何故死ぬのか。父に聞いてもその答えはありませんでした。そして、釈尊は宮中を出て出家をして真理を見出す道を歩みました。人間の無知を悟った釈尊は煩悩からの解脱を達成してブッタになりましたが、生の意味も死の意味も根本的には解くことが出来ませんでした。
文鮮明先生は歴史上初めて誰も解くことの出来なかった真理を解き証しました。これを知り得ることは手に入れることの出来ないダイヤを手に入れた以上の価値があります。
自叙伝には「人の霊魂は命を失ったからと言って埃のように消えてしまうのではなく、霊魂の世界に行くのです」(212)とあります。また、原理講論には「肉身は霊人体の衣と言える部分で、衣服が汚れれば脱ぎ捨てるように、肉身も老衰すればそれを脱いでその霊人体だけが無形世界に行って、永遠に生きるように創造された」とあるように、死は終わりではなく、第三の人生の出発なのです。
では、人は何のために生きるのでしょうか。霊人体の感覚は肉身の五感と同様に霊的五感がありその感覚は肉身とまったく同じであると言います。しかし、その五感を霊界でフルに発揮するには肉身がある時に五感をフルに発揮できる光り輝く霊人体を作らなければならないのです。地上生活は空気を吸って行きますが、霊界は愛の空気を吸って生きます。愛とは何か。文先生は真の愛について解きます。真の愛の生活は心の良心に従った影のない人生を生きなければ出来ません。真の愛は与えても与えても尚与えたい愛であり、与えたことすら忘れてしまう愛であります。その愛の人格を完成するのが地上生活の目標でもあります。
良心は両親に勝り、良心は師に勝り、良心は神様に勝ると言います。良心は第二の神です。しかし、堕落人間である私たちは良心の外を覆っている邪心を取り除かなければ良心が光り輝きません。良心は私たちを天国に導くカーナビのような役割をするのです。カーナビが故障すれば正しい道案内をすることが出来ないのです。
高等宗教は人間を皆罪人であるとみなします。どんな良い人であっても邪心のない人はいません。そこで、高等宗教人生には償いが必要なのだと言うのです。青の洞門という話を知っていますか。作家菊池寛が「怨讐の彼方に」という題で発表した小説です。そこには罪を消そうとして苦悩した男と、影を作ろうとしてやめた若者の怨讐の彼方にある喜びが描かれています。
江戸時代の話です。主人を誤って殺した奉公人が殺人強盗を犯して逃げ回るのですが、良心の呵責を感じてある僧侶に出会い出家します。人の為に生きても心が晴れず、ある時九州の大分県までたどり着き断崖絶壁で衝撃的な光景を見ました。死人が籠にかぶせられて運ばれてくるのです。馬が暴れて足を踏みはずせば断崖から皆落ちて死ぬ道でありました。村人はその断崖を通らずには先に行けない場所だったのです。彼はその断崖に立って自分の人生の償いはこの場所であると悟ります。そこで、彼はのみで岩を削ってトンネルを掘ることを決断して一人でもくもくとトンネルを掘り始めるのです。初めの頃村人は手つだってくれましたが、皆無理だとあきらめて去ってしまい男は一人でトンネルをもくもくと堀続けるのでした。そして20年の歳月を越えてようやく貫通する時がやってきました。村人はついにこの男を尊敬して手伝い始めます。
もう少しで貫通する時、白髪の老人となった男がふと顔を見上げると一人の若武士が太刀を上げて立っていました。若武士は「やっとみつけた。わしが誰だかわかるか」と言いました。男は直ちに分かりました。それは、彼が殺した主君の子供だったのです。親の仇討のために全国を回ってやっと探し出したのでした。男は若武士に「なんで忘れましょう。あなたの父を殺した罪を償うために穴を掘り続けているのです。あと3年待ってくれ」と言いました。貫通すれば殺しても良いというのです。傍で見ていた村人たちも男に同情しました。しかし、若武士は心の気持が治まらないので、夜、刀をもって洞窟に入り、男を殺そうとしました。しかし、一心不乱にのみを振るう男に刀を振り下ろすことは出来ませんでした。若武士は早く仇を討ちたい一心からのみをもって手伝い始めました。若武士は岩穴を掘ることを手つだってみて、この洞道を作ることが、どんなにたいへんな仕事であるかをひしひしと感じるのでした。
そして、若武士の良心が語りかけます。(仇を討とうとするお前と、罪の償いのために生れてきているこの男とどちらが正しいか)と良心が語りかけ、手は鈍るのです。そして、30年の歳月が立ちついに洞窟は貫通しました。30年間の苦しみと喜びが、心の底からわきでるような声となって、男の口からしぼりだされました。男は若武士の手をしっかりとにぎりしめ、若武士も男の手をにぎりしめました。にぎりあった手に、二人の涙が流れおち憎しみも、苦しみも、悲しみも、すべてが川の流れの中に、流れさっていきました。こうして、30年にわたる僧侶となった男の血のにじむような努力によって、青の洞門は開通したのです。これが青の洞門の話しです。
影を作らない人生とは、敵がいない人のことを言います。敵(憎らしい人、愛せない人)から逃れる方法は敵を好きになるしかありません。自叙伝書写は人の心を深く、広くするために文鮮明先生のみ言葉を心に写して植え込むためのものです。肝臓移植は生きている肝臓を移植することですが、自叙伝書写は心の移植です。
人を愛せない心は死と同じです。愛の無い霊人体を作れば地獄に行きます。どんな人でも文先生の生きている心に似ることができます。文先生の真の愛の実践が文先生の言葉に表れ、それを書き写すことによって、私の心に深みと広さと豊かさをもたらすのです。
これが心の書写です。心の手術と言っていいでしょう。書写をただの紙だと思っては行けません。書写の白さが私の心白さです。私の心に文先生の言葉を自分で紙に書いて刻みこむのです。良心の声にしたがった、影のない人生を歩みましょう。