木更津教会の礼拝と説教
木更津教会で毎週日曜日午前10時半より行われている礼拝の説教を掲載しております。
公認教会 記念礼拝「真の愛の力」 2011年5月29日 教区長 |
【訓読】 原理講論112ページ 「愛の力と原理の力から見た堕落」
人間は原理をもって創造され、原理軌道によって生存するように創造された。それゆえに、原理の力それ自体が、人間を原理軌道より脱線させ、堕落せしめることはあり得ないのである。この原理の力よりも強い力が、すなわち、愛の力なのである。それゆえに、未完成期における人間は、その非原理的な愛の力のために堕落する可能性があったのである。
それでは、神はなぜこのように原理の力よりも愛の力を強くして、未完成期における人間が、目的の違った愛の力にぶつかるとき、それによって堕落することもあり得るように創造されたのであろうか。
創造原理によれば、神の愛とは三対象の愛によって、三対象目的を完成した、四位基台の主体的な愛をいう。したがって、神の愛がなければ、人間創造の目的である四位基台が成就されないために、愛は人間の幸福と命の源泉なのである。神は原理によって創造された人間を、愛によって主管しなければならないので、その愛が愛らしく存在するためには、愛の力は、あくまでも、原理の力以上に強いものでなければならない。もし、愛の力が原理の力よりも弱いものであるとすれば、神は原理で創造された人間を、愛をもって主管できず、したがって、人間は神の愛よりも原理をより一層追求するようになるであろう。イエスが弟子たちを真理によって立たしめ、愛をもって救おうとされた理由は、正にここにあったのである。
【説教骨子】
木更津教会公認教会出発おめでとうございます。今日は「真の愛の力」という題目でみ言葉を分かち合っていきたいと思います。
木更津という名の由来は、一般的には倭建命伝承の一説、君不去(きみさらず)が元になっているというのが通説であります。倭建命は相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まりました。そこで、后の弟橘媛が「どうぞ皇子の東征を護らせ給え」と念じ自ら命に替わって入水すると、波は穏やかになり、船を進めることが可能になった。七日後、姫の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。袖ヶ浦という地名は、弟橘媛の帯や袖が流れ着いたという伝説に基づいて名付けられた地名であるのは皆さんも良く知っていると思います。
では、どうして弟橘媛のこの行動が波を穏やかにすることができたのでしょうか。それは、弟橘姫がとても清い心情をもっていた方だからです。その精神は愛する夫のために、自らの命を投げてでも救いたいという真の愛の心情が天に通じて神の役事を起こしたのだと思います。
原理のみ言葉によれば、神様は原理の力よりも愛の力を強く創造されたと言います。何故でしょうか。それは、神様が人間を愛で主管なさるためです。愛がなければ生命はありません。世間には子供が出来て胎児を簡単に捨ててしまう母もいるのです。そのように愛が偽りであれば生命も生きられないのです。ところが、その偽りの愛であっても愛は愛ですから、原理の力よりも強い力が堕落世界においても働いているのです。この偽りの愛が堕落した人間世界を支配してきました。偽りの愛は自己の欲望のために他人を利用しようとする愛であり、一時的な自己満足のための自己中心的愛であります。
今、世界は大転換紀に入っています。この腐敗した堕落世界を如何にして変えることが出来るのでしょうか。戦争と闘争はどうやって終わるのでしょうか。
文先生は、生涯全てを世界の平和実現のために費やしてきました。世界平和建設は、絶えず自己を犠牲にし、自分がもっているものを惜しみなく与える真の愛によってなされます。与える愛は疲れることを知りません。真の愛を完成した人は絶対に堕落することはありません。神様が人間を創造した動機は「愛を通して喜びを得ようとする情的衝動心」から出発していると文先生は言います。これからは義務感、使命感だけでは信仰生活も疲れてしまいます。その力は永遠性がないためです。後天時代はより本質的に生きて行く時代です。為に生きる真の愛の力こそ世界を変える大きな力となるのです。木更津には伝説的にもその精神が宿っている地であります。真の愛の力で世の中を変えていきましょう。
当日の記念式典の様子はこちら