木更津教会の礼拝と説教
木更津教会で毎週日曜日午前10時半より行われている礼拝の説教を掲載しております。
題目「「神様のみ旨」 2012年4月22日 教会長 |
訓読「自叙伝」より
宗教の目的は何でしょうか。それは神様の理想世界を成し遂げることです。より多くの人を宗教の世界に伝道しようと努力する理由は、より多くの人を神様の民にするためです。すべての人が神様の民になれば、世の中はもはや戦争と混乱のない平和世界になります。究極的に宗教が行く道は平和です。 今のように、宗教と人種を前面に立て、同じ群れどうしで固まる時代が続くとすれば、人類は戦争を繰り返すほかありません。慣習と伝統を超えなければ、平和の時代は決して訪れることはありません。今まで人間を操ってきたどの主義も、思想も、宗教も、来るべき未来の平和と統一を成し遂げることはできないのです。ですから、未来には、仏教も超え、キリスト教も超え、イスラームも超える、新しい理念と思想が出てこなければなりません。
【説教骨子】
今日は「神様のみ旨」という題目でみ言を分かち合っていきたいと思います。
神様のみ旨
神のみ旨とは何でしょうか。これは単純かつ難しい質問です。
人類の懇切な願いは自由と平和と安全な国で生きることです。しかしながら、今世界的混乱の中で未来の希望を見出すことができない状態に達しています。民主主義も共産主義も、宗教も、哲学も世界の問題を解決することには無力です。なぜでしょうか。それは神様のみ旨が何であるかわからないからです。
文先生は数年にわたる祈祷と真理探究の土台の上に神と人間の関係は父子の関係であることを悟りました。ゆえに、神様は人類の苦痛をご覧になって悲しんでいるという悟りを得て、宇宙のあらゆる秘密を解き明かしたのです。神と人間の関係が明らかになることによって初めて神のみ旨とは何かが分かるのです。
神様のみ旨とは神と人間が神の創造理想を完成することです。神様は、人類始祖アダムとエバを創造された後、生育し(人間として成熟し)、繁殖し(家庭を築き)、平和世界を築いて暮しなさいと祝福してくれました。もし、アダムとエバが創造理想を完成したならば、その世界は言語、文化も一つとなり、伝統も一つであり、真の歴史が現れるはずでありました。
ところが、アダムとエバは神様が定めた時と戒めを守ることができず、不倫を犯しました。そして罪の子女を繁殖して罪悪の世界が出来てしまいました。神様はこの堕落世界を放っておくことはできず、歴史の背後で救援の手を差し伸べてこられたのです。
統一原理では、神のみ旨とは、堕落によって失った神の創造理想を完成することであると説いています。
堕落した世界に住む我々
仏教では、この世の中を苦海と表現します。これまで、すべての宗教と聖賢たちが苦海の人間世界を救いだそうとしてきました。しかし、それは誰も解決することの出来ない一つの課題として残されてきました。
なぜ、人間は苦海に入っていると表現するのでしょうか。それは人間が堕落して神を離れたからです。堕落した結果として、私たちの心と体が戦って分裂しています。良心と肉心がつねに戦っています。これを否定する人はいないと思います。
人間は堕落した存在であることから、一人の人間の心と体が戦っているので、その戦いが個人から家庭、民族、国家、歴史と展開するようになったのです。ところが、これまで堕落とは何かについて明確な回答を提示できる人はいませんでした。キリスト教では原罪はアダムとエバが聖書の文字通り善悪の実を取って食べたことが原因であるといいますが、これでは現代人を説得できる答えにはなりません。
文先生は人間始祖の堕落の動機と経路を明確に解明しました。堕落は、エバと蛇に象徴される天使長の不倫なる淫行関係によって始まりました。エバはアダムを誘惑して堕落したことによってアダムは天使長と一体となったので、アダムとエバは結局神様を中心としたのではなく、天使長、すなわちサタンを中心として夫婦関係を結びました。その結果、人間はすべてサタンの血統を引き継ぎサタンの末裔となったのです。
人間は堕落することによって矛盾した心を持つようになり、罪悪の世界で生きるようになりました。もし、神様がこのような人間世界をそのまま放置して堕落した人間を救うことができないならば、神様は無能な神になってしまいます。
したがって、神様は罪悪の世界を救い、人間を本然の位置に戻して救援するのです。では、どのようにして神様は人間を救援するのでしょうか。
神様の救援摂理
神様は人間を見捨てることはできません。それは人間が神の子女として永遠な理想をもって創造されたからです。肉身は土に帰っても霊人体は霊界に行って永遠に生き続けるのです。ところが、霊人体が未完成のまま霊界にいけば、地獄にいくしかありません。人間が苦しめば神様も苦しみます。人間は神様の愛の対象として創造されたので、人間が神の喜びの対象にならなければ、神様も喜ぶことはできません。
そこで、神様は宗教を通して人間を救援する摂理をしてこられたのです。人間の歴史の背後には神様が介在しています。かといって、堕落した人間を一変には救うことが出来ないのです。東洋には東洋の宗教、西洋には西洋の宗教を起こして堕落した人間を段階的に引き上げてきました。その宗教には、僕の宗教、養子の宗教、息子の宗教、父母の宗教があり、その時代の地域性と心霊基準に従って神様は宗教を成長させていったのです。
神様の救援の中心的な宗教はユダヤ教であり、イスラエル民族を選民として立てて救援摂理を展開しました。
ところが、イスラエル民族がイエス様をメシヤとして受け入れることが出来ず、十字架にかけてしまったので、イスラエル民族は選民の資格を失い、ユダヤ教を経てキリスト教が摂理史の中心的な役割をするようになりました。
キリスト教でイエス様のことを「神のひとり子」と表現するのは、イエス様がメシヤとして神の血統を相続した初めての子であることを意味します。このような摂理的な背景をもったキリスト教が世界の歴史の中心となり、20世紀の文明を支配する民主世界の創建を成してきたのです。
東洋にも伝わったキリスト教
イエス様が十字架にかからず、真の父母として完成していたならば、二千年前に東洋と西洋を一つにして世界統一を成し遂げていたはずです。イエス様は体を失ってしまいましたが、準備された精神文明圏の東洋にもその思想は弟子たちによって伝わりました。イエスの12弟子の一人であるトマスが、中国及びインド地方に伝道に行き、殉教しました。東洋に伝わったキリスト教はネストリウス派のキリスト教で景教と言われていました。実際インドでは、すでに二世紀にはキリスト教徒の数もかなりのものになり、三世紀にはキリスト教の団体もありました。
東洋で景教と言われたキリスト教の思想が、大乗仏教の思想の中に混入していったのです。大乗仏教には釈迦自身の教えとは言えないものがあります。たとえば、大乗仏教では、小乗仏教にはない「大日如来」や「阿弥陀仏」という神格的存在が説かれています。また、極楽浄土や仏国土という思想がありキリスト教で言えば天国です。これは釈迦の教えにはありませんでした。また、浄土宗では「罪」の概念が盛んに説かれました。これも原始仏教にはなかった概念です。そして、大乗仏教には末法思想と呼ばれる歴史観、および「弥勒」と呼ばれる未来の救い主に対する信仰があります。これはキリスト教の終末思想とメシヤの再臨と似ています。
また、昔から日本の仏教界では、法華経が最も読まれ最も重んじられてきました。法華経は、インドでは見向きもされなかった経典ですが、日本では「仏教のバイブル」と言われるほどに親しまれる教典となりました。法華経は親鸞や日蓮だけが用いたのではなく空海や最澄も法華経を重要視していまいた。
法華経には「久遠実成の仏」という、「シャカは実は永遠の昔から仏なのだ」という思想が説かれています。これは、ヨハネの福音書に語られている「永遠のキリスト」の教えと同じです。このように法華経は数ある仏教の経典の中でも、景教の影響から聖書の中心的思想に最も近いものを持っていました。ですから、日本で何故、法華経が最も愛されたのかというと、それは、神様の救援摂理の主流宗教がキリスト教であるからです。
救援摂理の究極的目的と私たちの責任
キリスト教は新婦の宗教であり、その目的は再臨主を新郎として迎えて神のみ旨を成就することにあります。統一教会は歴史上最後に出てきた宗教です。そのため、真の父母様が現れたのであります。息子と娘の時代が終わり、父母の時代に入っていく時代を迎えています。親を失った息子と娘は親に会いたいと願いますが、これが父母宗教にかけられた願いであるのです。その父母から愛を受け、真の愛に出会いたいということが人間の本質的な願いです。
個人の救いのみでは神のみ旨は成就されません。今の時代は、理想家庭の実現を通して民族国家世界の救いの道を開く時代なのです。我々は偶然にもこの時代に生まれました。イエス様が成し遂げたくても成し遂げることの出来なかった使命を担ったのが真の父母様であります。
今の時代は信じるという信仰だけでは救われません。真の父母様に侍って、理想家庭の実現を通して神の国建国を成し遂げることがこの時代に召命された者の責任です。
神のみ旨を知って神様の願いに答えていきましょう。