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木更津家庭教会の礼拝と説教

木更津家庭教会で毎週日曜日午前10時半より行われている礼拝の説教を掲載しております。

  題目「価値ある人生」 2012年2月12日   教会長   

説教骨子】

(当日使用したパワーポイント映像と併せてご覧ください) 

今日は「価値ある人生」という題目でみ言葉を分かち合っていきたいと思います。



「他人のために尽くす人生こそ、価値ある人生だ」 この言葉は科学者であるアルバート・アインシュタインの
残した名言です。
どうして、そのように生きることに価値があるのでしょうか?ただ、他人の為に尽くせば、
価値ある人生になり得るのかといえばそうではありません。

ヒットラーの為に尽くすことが価値ある人生でしょうか、犯罪者に尽くすことが価値あることでしょうか。
み言葉を通して確認してみましょう。



私たちは、生まれることをコントロールできるでしょうか?また、死を決断してその時期を自ら決められるで
しょうか?私たちは生まれることも、死ぬことも自分で選択することはできません。

では、いつか死ぬのに、お金、名誉、学識に価値をおいて生きる意味があるでしょうか。自分が生まれた動機と
目的も自分によるものではないように、自分が生きるべき目的も、自分の為ではありません。では、親にその動機が
あるでしょうか。親は五体満足の子どもが生まれることを願ったかもしれません。しかし、親に「人生の目的」を
聞いても答えは分かりません。それは、親も、自分の意思で生まれたからではないからです。



人間の欲求は食べることと寝ることだけでは、満たされないようになっています。もし、皆さんが食べることと、
寝ることだけが唯一の楽しみだとすれば、それは人間としての最低のレベルで生きていることになります。
 

心理学者のマズローは5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると最後に発表しました。それが、
「自己超越」の段階であるといいます。自己超越を宗教的に言えば、神と一つになりたいという欲求であると
言えるでしょう。

なぜそのような欲求が根底にあるかといえば、人間は神に喜びを返す存在として創造されたからです。
人間の最大の欲求は、究極的には神のために生きることによって最高の満足を得たいという欲求なのです。



欲望は何のためにあるのでしょうか。それは、神が人間を創造した目的を知ることによって解決できます。
多くの宗教が宇宙万物の根源者を解いています。キリスト教では、神と言い、ユダヤ教ではヤーウェ、
ヒンドゥー教ではブラフマン、イスラム教ではアッラー、仏教では真如、儒教では天と表現します。
しかし、これまでの宗教では、神が何のために人間と宇宙を創造されたのかを明らかにしていません。
また、悲惨な人類社会をなぜ一時に救えないのかも分かりません。神はヴェールに包まれていて漠然と
しているのです。



神は愛を通じて喜びを得るために、その対象として人間を創造されたのです。 神は人間が神の似姿として成長
することを願われました。そうすることで神の喜びが最高に実現されるからです。そのために神は人間に三大祝福を
与えられました。人間が人格を完成し、家庭を完成し、主管性を完成するようにせしめられたのです。
 

宇宙の法則の根本は、宇宙のすべての存在は、自分のために存在しているのではなく、他の為、他人のために、
神のために存在しているというものです。すなわち「ために生きる」存在であるのです。正しい善悪の基準は、
他人
(人類)のために生きるか、自己中心に生きるかで決まるのです。そして霊界天国は、為に生きて真の愛を完成した
人間が行く世界であるのです。



神様とは如何なる方かを正確に教えてくれた方が「文鮮明先生」であります。
2000年前のイエス・キリストの第一の発声は、「悔い改めよ、天国は近づいた」というものです。
何を悔い改めたら良いのでしょか。それは、他人のための犠牲と奉仕に生きるという規則に違反したすべての
行為を悔い改めるということです。



食卓に並ぶ食事も宇宙的な法を知っていて、自分たちはより大きな目的のために存在している、と思っています。
それらの食物がそういう姿勢をもっているので、人間が公的な目的に向かって奉仕するために、それらの食物を
食べれば、彼らは感謝するのです。食物は人間のために犠牲になるのです。
  しかし、もし、人が公的な目的のために生きていないならば、食物は時々、それを食べた人のおなかの中で
人間に対してデモを行います。すると、その人は病気になったり、場合によっては死ぬこともあります。



端的に言えば、自分のためだけに生きれば悪であり、他人(人類)への犠牲と奉仕に生きれば善であります。
そして究極的には神と人類のために犠牲と奉仕に生活をすることが究極的な人生の価値であると言えるでしょう。
 

価値ある人生は神を知ることから始まります。そして、神と共に真の愛を実践して、神の願いを果たそうとする
人生を生きることに価値があるのです。

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